広島ベトナム協会 ベトナムの歴史
ベトナムの歴史
フランスによる植民地化  

  ベトナムにキリスト教の宣教師がはじめて訪れたのは16世紀のことでした。
  1615年にはベトナム中部のホイアンに伝導教会が建設されています。
  フランス人宣教師アレクサンドル・ドゥロードは1624年にベトナムへ来ましたが、
  ベトナム語をとても上手に話したそうです。
  当時ベトナム語は漢字を使って表記されていましたが、
  彼はそれをローマ字を使って表記する方法を考案しました。
  これが現在も使われているベトナム語の表記方法
  コックグー(国語)の始まりです。

  グエン王朝を開いたジャロン(嘉隆)帝グエン・フック・アインは
  西山グエン氏に戦いで敗れてタイへ逃れていたときに、
  フランス人宣教師アドラン司教と出会い、
  西山グエン軍を破ってフエの王朝を開くきっかけを作りました。
  1784年グエン・フック・アインはアドラン司教に息子を預け
  フランスへ送り軍事援助を頼みます。
  結局はフランスの援助はもらえなかったけれど、
  アドラン司教の個人的な援助で軍勢を整えて、外国勢力の援助で
  西山グエン氏を滅ぼし、フエで皇帝に即位しグエン王朝を開きます。
  フランスに友好的だったジャロン帝は1819年57歳で死去しますが、
  その後を継いだミンマン(明命)帝はジャロン帝とは正反対に
  ベトナム国内から徹底的に外国勢力を駆逐する政策をとります。
  日本の尊皇攘夷思想も儒教からきていますが、
  ベトナムのミンマン帝も同様に儒教にしたがって
  国内から外国勢力を追い払います。
  このころの日本やベトナムでは儒教思想がもっとも一般的で、
  ベトナム政府も儒教の思想に基づいた外国勢力の国内からの
  駆逐する政策が主流の考え方でした。
  1833年1月6日にキリスト教を禁止する勅令を出し、
  国内でのキリスト教の布教を禁止し、信者は死刑、
  教会は破壊する通達をだします。
  その後にフランスに植民地化された原因が、外国勢力の力を
  借りたジャロン帝の責任なのか、鎖国政策をとって外国の
  進んだ産業をとり入れずに国力を削いだミンマン帝なのか
  議論が分かれるところです。

  ミンマン帝は1841年に死去、
  テェウチ(紹治)帝(1841〜1847)が後を継ぎます。
  ちょうどそのころ中国でアヘン戦争が起こります。
  
  清国での阿片取り締まり強化に端を発したアヘン戦争は、
  1840年〜42年にかけて清とイギリスの間で戦いが行われ、
  結局戦争に負けた清は南京条約を結び、
  香港を割譲し多額の賠償金を払わされます。

  このアヘン戦争がきっかけとなり、英国とフランスの
  インドシナへの政策が強硬路線へと変わって行きます。
  1847年2月26日フランス軍艦エロワースがダナンへ入港し、
  
  ベトナムで逮捕され死刑宣告を受けたフランス人宣教師5人の釈放を要求します。
  テェウチ帝はフランス軍の要求を受け入れて宣教師5人を釈放したので、
  軍艦エロワースはダナンを去ります。
  
  しかし4月15日別のフランス軍艦グロワールとビクトリユーズがダナンへ入港し、
  すでに釈放済みの宣教師5人の釈放を要求、
  ダナン港に停泊中のベトナム軍 艦を砲撃し5隻を撃沈してしまいます。
  

  ベトナム政府はこの事件に激怒しますが、フランス軍に対抗する軍事力がなく、
  結局泣き寝入りするしかありませんでした。

  テェウチ帝はこの年の11月に死去してしまいます。
  後を継いだ第4代皇帝のトゥドゥック帝(1847〜83)は
  
  外国勢力に対する強硬姿勢を強め、フラ ンス人宣教師2名を死刑にしてしまいます。
  この事件を受けて1858年フランスのナポレオン3世は
  フランス軍艦隊をベトナムへ派遣します。
  8月31日フランスとスペインの連合艦隊がダナンに入港し
  ダナンを占領してしまいます。

  1859年にはブンタウから進攻して南部ベトナムを占領します。
  1862年6月5日にベトナムとフランスは講和条約を締結し、
  ベトナム側はフランス人宣教師の布教活動を認めること、
  コーチシナ東部の3省とプロンドール島をフランスへ割譲すること、
  多額の賠償金を払うこと、ダナンとクァンイェンの港を開港することを
  認めさせられてしまいます。
  1883年7月16日に対外強硬路線のトゥドゥック帝が死去すると
  フランスは後を継いだヒェップホア(協和)帝に迫って、
  フランスがベトナムの保護国になることを認めるアルマン条約を結んでしまいます。    
  フランスよりのヒェップホア帝はそれがもとで在位4ヶ月で毒殺されてしまいますが、
  後を継いだキェンフック(建福)帝も半年で毒殺されてしまいます。
  そんな混乱の中で12歳のハムギ帝が即位します。
  
  1884年6月6日にフエでハムギ帝とフランス公使パトノウトルが
  パトノウトル条約に調印します。
  フランスはベトナムの保護国であること、
  フランスは外 交関係においてベトナムを代表すること、
  フランスを代表する総督はベトナムの外交を統括し、
  保護権を行使する、などの項目で、ベトナムが完全に
  フランスの植民地になることを意味する条約でした。
  翌1885年7月5日パトノウトル条約を結んでも一向に条約に従わず、
  無視したままのベトナム軍とフランス軍がフエで交戦します。
  この戦いでベトナム側が敗れてしまい、ハムギ帝は王宮を脱出し
  国境の少数民族の村に3年間隠れ住む生活を送ります。
  その後1888年11月にフランス軍に発見され逮捕、
  アフリ カのアルジェリアに流刑され、その後の一生を
  アルジェリアの流刑地で過ごすことになります。
  
  ハムギ帝のいなくなったフエでは、フランス軍により新帝ドンカイン(同慶)帝が
  即位しますが、
  わずか4年で死去してしまいます。
  次のタインタイ(成泰)帝 とズイタン(維新)帝はフランスに
  対するクーデターを起こして失敗し、
  アフリカのレユニオン島に流刑にされてしまいます。

  次のカイディン(啓定)帝は10 年で死去、
  その後にグエン朝最後の皇帝バオダイ(保大)帝が1926年に即位し、
  1945年のベトナム民主共和国の成立とともに退位し
  143年間の王朝の 歴史に幕を下ろします。